ブログ

ブログです。

右岸と左岸

 電車が終点に近づくにつれて乗客は一人二人と減っていき、最後に二人の酔いどれが残った。進行方向右岸の酔いどれはある程度の意識を保っているようだった。左岸の酔いどれは、もう酔いつぶれて眠ってしまっていた。走る電車の中、右岸は自分の置かれている状況に気が付くと、怪しい足どりで立ち上がった。そして左岸の酔いどれに歩み寄って、肩をゆすり始めた。
「すいません」酔っぱらい同士のよしみで起こしてやろうとしているように見えたがそうではない。「すいません、すいません」
 何度か声を掛けて反応が無いことを確かめると、右岸は左岸の荷物から財布を抜き出した。車両にはもうその二人以外誰も居なかったので、右岸は辺りを見回すこともなく財布を物色した。その財布には千円札と小銭が何枚かずつ入っているばかりだった。
「貧乏人の癖に酒なんか飲みやがって」
 右岸は悪態を付きながらクレジットカードが無いか検めたが、左岸はゆうちょのキャッシュカードしか持っていないようだった。「チッ」右岸は諦め悪く財布をこねくり回して、ドラッグストアのポイントカードなどの束を調べ始めた。「……あ」ポイントカードの束に紛れて、一枚の乗車券があった。《東京→伊豆急下田》と書いてある指定席券だ。発車時刻は明日の正午。
「ふーん、伊豆ねぇ」
 右岸は自分の財布にその乗車券をしまうと、ふらふらと別の車両へ移っていった。


 翌日、右岸は仮病で会社を休んで家を出た。最寄り駅前で牛丼をかき込んでから東京駅に向かい、正午ごろ、東京駅から「特急踊り子」に乗り込んだ。乗車券に記載されていた指定席は、周りに騒がしい団体もおらず快適だった。温泉にするか、海にするか。右岸が漠然と旅行の計画を思い描いていると、乗務員が歩いてきた。
「すみません。乗車券を確認いたします」
「はい」
 右岸が乗車券をひらひらさせると、乗務員が訊いてきた。
「すみませんが、そちらはお客様のものでお間違いありませんか?」
「え?はい、自分で買ったものですが」
「では、特別なサービスがございますので別室へどうぞ」
 右岸は別室へ案内された。


 その日の夜更け、左岸に電話が掛かってきた。左岸は緊張していた。自分の臓器の大半が摘出されてしまうという恐怖から逃れるために深酒をしたのがよくなかった。目が覚めたら、業者の男から受けとっていた乗車券をどこかに落としてしまっていたのだ。乗車券を無くして行けませんでした、なんて言おうものなら、甲乙両方の業者から憎まれてノーギャラで八つ裂きにされてしまうのではないか。その手の業者はメンツを重んじる文化があるとゴシップ誌で読んだことがあった。左岸はしばらくためらっていたが、着信音が鳴りやまず、無視をするのも恐ろしいので電話に出ることにした。左岸は緊張で声を上ずらせた。
「あっあっ、はい、もしもし」
「もしもし?先日の、提供の件ですけど」
 業者は魚のように平板に話した。
「あの。えっと。それなんですが、実は乗車券が…」
「乗車券?捨てちゃっていいですよ。ていうか捨てて下さい。とにかく、お疲れさまでした。まあ寿命はだいぶ縮んじゃったと思いますけどね。正直こうしてご存命なのが奇跡みたいなものですよ。それで、約束の三百万円ですが、『フルコースでお願いします』って言いましたよね?おたく勇気ありますよ。大したもんです。いや、感謝とかは良いです。こっちはただの仕事なんで。それで他にも色々取っちゃったんで、追加でもう五百万振り込ませてもらいましたんで。後で確認してください。この電話が切れたら、そのスマホはどこかの川に捨てて下さい。うちもセキュリティ面で色々気にしなきゃならないんで。ではお疲れ様です」
 業者は一方的に話し終えると電話を切ってしまった。なんとなく、おたくの質問や感想には興味が無いので、と言われたような後味がその場に残った。
 左岸は日野駅周辺にいたので、近くの橋を流れる川を見つけてスマホを投げ捨てた。そして近くのコンビニのATMで口座の残高を確認すると、残高が八百万円増えていた。
「どういうことだ……?」
 左岸はしばらく考えたが、何が起こったのか分からかった。
「ありがとうございます」
 左岸は天を仰いで手を合わせた。
 その後、左岸は有名な宗教団体の信者となり、人類とネコの和解のために残りの一生を捧げた。

ぽめぽめ

 カシ太は仙人のアパートで紅茶を飲みながら誓いを立てた。仙人は何千年か生きていると言っていたが見た目はそこらに居る青年のようで、カシ太はまだ子供だった。仙人がカシ太に訊いた。
「本当にやりたい?」
「はい」
 意気込んだら声が少しかすれてしまったのが恥ずかしくて、カシ太は紅茶を啜った。ティーカップを持っていない方の手は、膝の上に置いたぽめぽめを抱いていた。ぽめぽめは、カシ太が名付けたぬいぐるみだ。
「君の一生がそれだけで終わってしまうかもしれないし、最後までうまく行かない可能性もあるんだけど」
「いいんです」

 

 

 カシ太が仙人と知り合ったのは、中学校から下校している時のことだった。カシ太は叔父夫婦の家に住んでいて、洗濯機を使っていいのは週に一度と決められていたから、学校ではよく「臭い」「ゴミ」と言われた。
「なんか臭くない?」
 悪童のグループはその日も威嚇的な笑みを浮かべながら近づいてきた。みんなカシ太に嫌がらせをするのに夢中な連中だった。カシ太は学校の悪童グループにぽめぽめを取り上げられてしまった。

「ぬいぐるみがかわいそうだろ、洗ってあげなきゃな!」

ぽめぽめは水たまりに放り込まれ、カシ太自身も暴力を振るわれた。その時、曲がり角から二十代くらいの青年が現れて、カシ太と悪童たちのいる道を歩いてきた。あのお兄さんは見て見ぬふりをして横切って行くだろう、とカシ太は思ったが、青年はシャツの袖から羽虫の群れを出して、悪童たちに襲いかからせた。羽虫の群れは黒い煙のように見えた。悪童たちは身体のあちこちを刺されながら逃げていった。
「大丈夫?」
「大丈夫です、全然大丈夫です」
「あれって君の?」
 青年は、水たまりにうつ伏したぽめぽめに気が付いていた。
「はい、ぽめぽめが……ぽめぽめって名前なんですけど、あいつらに取られて……」
 泥まじりの雨水でぐじゅぐじゅになっているぽめぽめを見て、カシ太は泣いてしまった。だから、あまりうまく説明できなかった。
「そっか。大丈夫、僕の部屋ですぐに洗うよ」
 その日はカシ太の衣服を洗っていい日ではなかった。洗濯機を使ったら、叔父に怒られる。カシ太は青年のアパートに行くことにした。
「ありがとうございます」

「僕のことは仙人って呼んでくれるかな?響きが好きなんだよね」

「分かりました、仙人さん」

「さんは付けないでいいよ」

 


 仙人はカシ太に自己紹介した。僕は近所のスーパーでレジ打ちをして暮らしているただの暇人です。
「でも、実はここ何千年か生きててね。学校でホモ・サピエンスって習ったかな?それより前に居た人達と遊んだこともあるよ。それでまあ、色々修行をしたから、さっきみたいに虫を出したり、暇つぶしみたいなことは出来るんだけど」
「全然すごいです」
「でも、『虫を出せます』で雇ってくれる人は居ないから。それに、レジ打ちって奥が深いんだよ」
「ピッてするだけじゃないんですか?」
「君もいつかやってみるといいよ」
「やってみます。……あの」カシ太は切り出し方が分からず、出し抜けに訊いた。
「あの。魔法が使えたら、ぬいぐるみと話すこともできますか?」
「『ぽめぽめ』と話したいの?」
「話したいです。僕の友達は、ぽめぽめだけだから」
「もう少し生きたら、もっと友達が出来ると思うけど」
「ぽめぽめと話せないなら、もともと今週中に死ぬつもりだったから、友達は出来ないです」
仙人はカシ太の目をじっと覗き込んで、少し考えてから返事をした。
「辛かったんだね。じゃあ、少し調べるから待っててくれるかな」
「全然大丈夫です」
「待たせてしまうから、先に紅茶を淹れようか」

 

 

 紅茶が冷めてしばらく経ってから、仙人が本棚のある部屋から戻ってきた。外はもう暗くなっていた。
「結論から言うと、ぬいぐるみに命を吹き込む秘術、君が言う魔法みたいなものだね。それはあったよ」
 だけどすぐに出来ることじゃない、と仙人はカシ太に説明した。その秘術を行うためには、ある修行が必要である。その修行はどうすると上手く行ったのか、または上手く行かなかったのかを判断する方法が何もないため、ある日成果が出るまでひたすら続けなければいけない。
「それって、何をすればいいんですか」
「教えてあげたいんだけどね。僕たちの世界には決まりごとが色々あってね。本当に覚悟のある人にしか教えられないし、教えたら秘術が成功するまで一生やらなきゃいけない。時間の無駄だって思ってからも、ずーっと。そうしないと、全身からウジ虫が湧いて死ぬ」
「良いです、ぽめぽめと話せるかもしれないなら、その為にずっと頑張ります」

「本当にやりたい?」
「はい」
「君の一生がそれだけで終わってしまうかもしれないし、最後までうまく行かない可能性もあるんだけど」
「いいんです」
「本当の本当に?」
「はい」
「……分かった。じゃあ、教えるよ。まず修行だけど、この街にある七つの公園に住んでいる野良猫たちが居るから、毎日必ずエサをあげに行って。雨の日も、台風でも、もしこの街を引っ越すなら、その後もずっとだよ」
「猫のごはんですか?」
「そう。次に命を吹き込む方法だけど。毎晩、寝る前にぽめぽめの名前を呼んで。うまく行ったら、次の日の朝から話せるから」
「え……それだけですか?」
「でも、毎日、ずっと、だよ。あと、一日でもサボったら、二度と出来なくなるらしいから気を付けてね」
「分かりました。ありがとうございます」「ぽめぽめが目覚めたら、また会おうね」
 カシ太は叔父の家の玄関の前に立っていた。午後九時を過ぎていて、叔父からはクラスの悪童たちがマシに思えるほど厳しい仕打ちを受けたが、カシ太はもう気にしなかった。
(僕は、ぽめぽめと話すために生きて行くんだ)
 強い思いがカシ太の心を支えた。

 


 修行はそれから六十年続いた。六十年後、カシ太はキャットフードをリュックに詰めて公園を訪れた。その背中はすっかり丸くなっていた。午後九時。レジ打ちの仕事から帰ると、ぼろぼろの自転車で七つの公園を回って猫にエサをやる。カシ太は六十年間毎日それを守り続けた。そしていつも最後に訪れるのがこの公園だった。背の高い街灯が、砂利の小さな広場を照らしている。カシ太は自転車を停めると、垣外の明かりから離れたところにある植え込みに向かって歩いていって、しゃがみ込むと暗がりに向かって声を掛けた。
「タマ、ペロ、ピータ、ぽよすけ、めがね、アカネ、ギュードン。ごはんだよ」
 カシ太は野良猫たちをあだ名で呼び集めてエサをやった。カシ太は身体を折り曲げて、苦しげな乾いた咳をした。
「ふう。僕はもうおじいちゃんになってしまったよ」カシ太は猫達に話しかけた。「夢だったのかなって今日も思うよ。仙人のアパートがあった場所、どうしても思い出せないし」
「なごなごなご」「アーアー」野良猫たちが返事をした。
「でも、君たちがご飯を食べてるのを見ると僕は幸せなんだ。また来るね」
「ナーオ」「なごなご」
「うんうん。また明日ねえ」
 カシ太は家に帰った。叔父たちとはずっと前に縁を切って、小さなアパートで独り暮らしをしていた。荷物を置くとシャワーを浴びて、簡単な夕食を済ませてからスーパーの制服を洗濯した。洗濯が済むと午後十一時半を過ぎていた。カシ太は布団に入って、隣に置いているぽめぽめに向かって話しかけた。
「おやすみ、ぽめぽめ」
 これといった兆候もないまま、カシ太は眠るように息を引き取った。

 

 

 翌朝、ぽめぽめが目を覚ました。ぽめぽめは長いあいだ自分の中に眠っていた魂をありありと感じ、その身体を布団の上でもぞもぞと動かすことまで出来た。
「カシ太!起きて!わたし、話せるようになったよ!わたし、歩けるようになった!」
ぽめぽめはその喜びをカシ太に伝えようと精一杯声を張り上げたが、カシ太は静かに目を瞑っていて、いくら声を掛けても動かない。その亡骸は布団の中で、仏像のように静かな表情を湛えていた。
「カシ太!一緒に遊ぼう!」
「おはよう、ぽめぽめ」――若い男の声がした。
 いつの間にか、仙人が布団の側に立っていた。昔のまま、二十代の青年の姿をしている。
「仙人!ひさしぶり、ねえ、カシ太が起きないの。仙人も手伝って!」
「カシ太は、もう起きないよ」
「なんで?いつもはこの時間に起きてるよ?」
「いや、これからはもう起きないんだ」
「やだ!わたし、カシ太と遊びたいってずっと思ってたよ。カシ太と遊ばせて」
「そうだよね」仙人がカシ太を見下ろす。「入れ違いになってしまうとは」
「カシ太はどうしたら起きるの?」
「そうだなあ、うん……ちょっと待ってね」
 仙人はカシ太に手をかざして、呪文を唱えた。すると、カシ太の口から湯気のような水色の光が出てきた。光は仙人に気づくと言った。
「あれ。仙人、お久しぶりです」
「おはよう、カシ太くん」
「僕もレジ打ちの仕事をしましたよ。なかなか奥が深いですね」
「分かってもらえてよかった」
「でも、どこのスーパーを探しても仙人は居ませんでしたが……」
「仙人の法律みたいなものが色々あってね。申し訳ないけど、隠れて遠くから見てたんだ」
「そうだったんだ」
「カシ太!」ぽめぽめが言った。
「ぽめぽめ!」カシ太はそれがぽめぽめの声だとすぐに分かった。「喋れるようになったの?」
「うん!話せるよ!カシ太と遊びたくて起こしてた!でも、カシ太は青いふわふわになっちゃったの?」
「ふわふわ?あれ、自分が寝てる…幽体離脱?これは、やっぱり夢なのかな」
「いや、夢じゃない。君は死んでしまったんだよ。ぽめぽめが目を覚ますのと入れ違いになって」
「そんな、ぽめぽめが起きてくれたのにですか?まさか、そんな……ぽめぽめ、ごめんよ」
「カシ太がもう起きないのはさびしい。でも、いまカシ太と話せてうれしいよ!」
「カシ太くんは、このままだと成仏しちゃうんだけど」仙人が言った。「いま、野良猫たちが大反対してて」
「そうでしたか。そういえば、僕が死んだら猫たちのご飯はどうなってしまうんだろう」
「それもあるし、それから、ぽめぽめが目を覚ましたことも、カシ太くんが亡くなったことも、猫たちはみんな気づいていて、『せっかくぽめぽめが話せるようになったのにひどい、仙人がカシ太に身体を譲ればいい』って言って来たんだ」
「猫たちは勝手なことを言うんですね」カシ太のほほ笑むような声が部屋に漂った。
「仙人のなかに、カシ太が入るの?」
「そう、僕が出て行って、カシ太くんが代わりに入る。お引っ越しだね」
「仙人はどうなるんですか?」「一度、空気とか水のようなものに戻るよ」
「それは仙人に悪いです」
「君はそう言うと思った。だから、ぽめぽめに訊きたいんだけど、いいかな?」
「いいよ!」
「僕とカシ太くん、どちらかしかここに居られないとしたら、どっちがいい?」
「カシ太!」ぽめぽめは即答した。
「仙人に悪いよ」カシ太がぽめぽめを諫めた。「ぽめぽめと遊べないのはすごく寂しいけど、僕の命は終わったんだ」
「でも、仙人のなかに入ったらいいって今言ってたよ!」
「カシ太くん、そういう訳だから。この身体を君に譲るよ。猫たちもケチケチするなと言ってる」
「悪いですよ」
「大丈夫。仙人って案外沢山いるから。僕はもう何千年も生きたから、そろそろ情報をリセットする必要があるし。それより、よく頑張ったね」
 仙人はカシ太の亡骸の隣に身を横たえると、亡骸の頭をそっと撫でた。ぽめぽめも、「わたしもいつも見てた!」と張り合った。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、ぽめぽめのために生きることが出来ました」
「じゃあ、僕は出るから。この身体は使う人が居ないとすぐに崩れてしまうから、急いで入るんだよ」
 仙人はそう言うと、息を深く吸い込み、ゆっくり吐き出した。仙人の口から、淡い虹色の光の玉のようなものがふっと出てきた。
「またどこかで」
「ありがとうございました」
光の玉はプリズムのようにカラフルな光を部屋に反射させながら、窓に差す朝陽へ泳ぎ出すと、霞のように消えてしまった。
「カシ太!早く!」「うん、いま入るよ」
カシ太は急いで仙人の使っていた身体の中に入った。そして目を開いた。

 


「カシ太!」「ぽめぽめ……」「動けるの?」「うん、大丈夫。動けるよ」
「よかった!じゃあ、早く遊びにいこう!」「うん、そうだね。どこに行こうかな」
 水曜日の朝、レジ打ちのバイトは休みだった。麗らかな陽射しの中、カシ太はぽめぽめを自転車のカゴに乗せて、その日一件目の公園に行った。
「ポンキチ、すし、オムちゃん、タンポポ、がんも、ひよこ、おいで」
 カシ太はその公園の猫たちを呼んで、エサを撒いた。猫たちは集まってくると、エサには目もくれず色々なことを言った。
「マオー」「あうなうな」「ンミ、ナア」
「ああ、そうだった……みんな、気にかけてくれてどうもありがとう」
「カシ太がくれるご飯はおいしいから、仙人よりカシ太の方が良いって」ぽめぽめが言った。
「ぽめぽめは、猫たちの言いたいことが分かるんだね」
「マンナン」がんもが言った。
「今朝、新しい仙人が生まれたんだって!」
 がんもは一度茂みの奥に引っ込むと、子猫を一匹くわえて連れてきた。
「ミイ、ミイ」
その目の奥を覗くと、淡い虹色に光って見えた。
「この子が仙人?」カシ太ががんもに尋ねた。「ナンマンナム」
「あたらしい仙人を育ててあげることにしたんだって!」
「そうかあ。ありがとう。よろしくね」
「ナムナム」がんもが言った。

新木場いった、とかの日記

パートナーのさとこと二人で「キタカミフェス2023」というイベントを観に行く予定があった。それで早起きしたけど秒で二度寝してしまって、結局9時ごろに布団から出た。昨晩、ホームベーカリーに小麦粉や水をつっこんで、7時にパンが焼けるように予約していた。焼けてから2時間経ったせいなのか、ドライイーストが足りなかったのか、いつもより小ぶりなギュッとした仕上がりのパンをさとこが焼き皿から救出して、その他目玉焼きなども作ってくれた。さとこは以前から食べたがっていた「餡バターパン」をこしらえて朝から幸せそうにしていた。

図書館に返しに行く本があった。「なぜ皆が同じ間違いをおかすのか 「集団の思い込み」を打ち砕く技術」という本。下記、amazonから概要を引用。

・品不足と勘違いして買い占めに走り、本当に品不足を引き起こす。
・欠陥があるとの誤解により、移植用の腎臓の10%以上が廃棄される。
・周囲から期待されているという思い込みのため、自分の人生を犠牲にする。

ありもしないことを皆で信じる「集合的幻想」は、社会や組織、個人にいたるまで大きな弊害をもたらす。自身も「幻想」を体験した心理学者が、脳科学・心理学の知見と多くの事例をもとに、幻想にとらわれる過程、打破する方法を解説。ぶれない思考や正しい認識を身につけ、豊かな人生を送るための必読書!

本屋で見かけて面白そうだったから、図書館で借りていた。借りたはいいものの、読みたい本が多すぎて(それでいて読む力と時間が全然なくて)、返却期限を1日過ぎてしまった。次に予約してる人がいたから早く返しに行かなきゃ、という状況だった。結局冒頭しか読めていなくて、今度またちゃんと読みたいなと思っている。

冒頭に書いてあったのはこんな話。文章は引用ではなく、おれがうろ覚えで再構成した要約。細部が間違っている気がする。

1920年代、ニューヨークに小さな町があった。誰かが木の根に躓いたことまで世間話の話題に上るような、相互監視の行き届いた村社会だった。そこは敬虔なクリスチャン達が暮らしているような街で、キリスト教由来の禁忌として、例えば「絵札付きのトランプでブリッジをするのはあり得ない」という価値観が町全体での常識になっていた。ある心理学者が調査に訪れて町民の一人一人と交流してみると、

「絵札付きのトランプでブリッジ?駄目に決まってますね」

というような意見を述べた。ところが町民の7割ぐらいが、実際は絵札付きのトランプで普通に遊んでいた。心理学者が「本当はどう思っているんですか?」と改めて一人一人に尋ねると、こんな答えが返ってくる。

「私は正直どうでも良いと思いますが、みんなは駄目だと言うでしょうから」

どういう訳か、トランプくらい別に良いじゃんと思いつつそんな自分を少数派だと思っているので自分の意見を表明しない「サイレントマジョリティ」が沢山いるらしい、ということがそれで分かった。

どうしてそんなことになっているのか分かったのは、何年か後のことだった。ある日、その町に住んでいる、とある夫人が亡くなった。すると、町民たちがおおっぴらに絵札付きのトランプでブリッジを楽しむ姿があちこちで見られるようになってきた。心理学者は、これは一体どういう事なんだろう、と首を傾げたが、次のようなことが分かった。

亡くなった夫人は教会の先代の牧師の未亡人だったのだが、教会に莫大な寄付をしていて、「町で一番の権威(教会)に仕える牧師の給料を実質払ってる人」みたいな立ち位置のおばさんだった。このおばさん…名前を書いてあったけど忘れたのでボケナス夫人ということにするが、ボケナス夫人は町の集会などに顔を出しては「絵札付きのトランプでブリッジをするなんて絶対に許されないことです」などなど私的な意見を知った風な口で言いまくっており、町の人達は皆「ボケナス夫人が言っているなら、たぶん教会もそういう見解なんだろう」と思い込んでしまっていたのだという。

ところがこの夫人が亡くなると、牧師は「もういいだろ」と言って普通にトランプで遊び始めた。町民たちも、「なんだ、やっぱり別にこれくらいしてもよかったのかよ」ということになった。これが事の次第だった。

権威のありそうな声の大きい人が私見を垂れ流していると、それを無批判に常識として呑み込んでしまう人々が生ずる、というのがこの話の要点だろう。この本は恐らく、社会に害をなすような集団幻想に対して私たちはどう対処していくべきか、ということを考えるための本になっているものと思われる。今度ちゃんと読みたい。

図書館に行こうと思って自転車に鍵を差すと、タイヤがぷよぷよになっていることに気づいて、近所の自転車屋に空気入れを借りに行った。自転車屋に着くと空気入れの順番待ちの小さな列が出来ていて、自分もそこに並んだ。並んでぼーっとしていると、後輪の泥よけが曲がっていることに気づいた。曲がっているというか、ズレているというか。ネクタイが真ん中ではないところから垂れているような感じになっていたので、自転車屋のおじいさんに声をかけた。

「すみません、ここが曲がってしまったんですが、修理するといくら掛かりますか?今お金が無いので、見積もりだけお願いしたいんですが」

「あ~?いいよいいよ。お金はいいからちょっと待っててね」

おじいさんは無骨そうなひょろっとした背中を見せて、先客の自転車を修理しながら答えた。しばらくして、先客の自転車の修理が終わる。先客とおじいさんが話している。

「はい、これでもう絶対に取れないから」「ありがとうございます」「何年乗ってたの」「三年ぐらいかしらね、でも安物だから」「安物だと作りが甘いからね。ほら、ここ…メイドイン・チャイナって書いてあるでしょう」「ああ、そうねえ、それでかしら」「でももう大丈夫だから。4500円です」

うお、チャリの修理ってやっぱ高いんだな、と思いながらそれを眺めている。先客がやがて去っていって、おれの番になる。

「はい、お待たせ。ここに持ってきてね」「分かりました」

作業スペースに自分の自転車を持って行って、おじいさんに見てもらう。おじいさんは泥除けのワイヤーを固定するためのパーツを見て、「ここが壊れてるね」とドライバーでかちゃかちゃ外していく。

泥除けのワイヤー。これと泥除けを固定する金具のようなものが付いている。チャリ持ってる方は自分のチャリを見てみてください。

(パーツを替えてもらうのだとすると、結局最終的にお金を請求されるのではないか…)と不安になる。作業を見つめていると、野球帽をかぶった少年が自転車を手で引きながらやってくる。「あのー、パンクしちゃったから見てほしいんですけど」「ああ、いいよ。12時に取りに来てね、預かっておくから。お金は後でで良いよ」「分かりました」「12時ね、12時」「はい、分かりました」などと話している。(パンクでお金とるなら、おれもやっぱり請求されるのでは…)とさらに不安になるが、もう「やっぱりやめてください」とも言えない気がして黙って見守る。泥除けのワイヤーを固定するパーツが外れると、ネジ止めのための小さな穴が二つ残る。おじいさんが店の奥に消えて行く。代わりのパーツを持ってきてくれるんだ、と思って待っていたが、しばらくして戻ってくると、ネジ穴のあった場所にちゃちゃっとケーブルタイを通して、それでワイヤーと泥除けを固定してしまった。

 

ケーブルタイ(っていう名前のものらしいです。おれも今調べて初めて知りました。コード束ねたりするのに使う、プラスチックの穴あき紐みたいなやつ)

「よしっ」おじいさんは満足げに頷いた。おれは、(パーツ取られてケーブルタイにされた…)と思いつつ、まあ確かに泥除けは真っすぐ固定されていて申し分ない状態にもなったので、なるほど…と思った。

「終わったよ、ボク」

ボク…?(アラサー・男性)と思ったが、あ~、それでお金はいいよとか言ってくれたしこういう適当修理でもいいだろ(ガキンチョのチャリだし)みたいなことになったのか、と思って、アラサーなりの精いっぱいの若作りをきめこんで「ありがとうございましゅ」などと言って立ち去った。

既に3000文字書いたが、まだ朝起きて図書館に行こうというところで、全然状況が進んでいない。おれは冗長な文章を書く天才なんじゃないかという気がして来たのでペースを上げる。

・チャリの空気は入れた。

・本は返した。

・電車とか乗った。

・「キタカミフェス2023」は天気も場所も演奏も素晴らしかった。

ペースを上げたので、17時ごろ「キタカミフェス」が終わった、というところまで書けた。途中、「aqubi」というユニットで活動されているキタカミさんと杉本さんにもお会いできて、わ~…と思いながら遠目に見ていたら声をかけて下さったりとか、嬉しいこともあった。「キタカミフェス」はキタカミさんの知り合いの方達が中心に出演されているイベントだった。好天の新木場野外でジャズやポップスの素敵な演奏を聴くことが出来た。フードでカレーを売っていたりした(エスニックな感じの、おいしくて滋味深いカレーだった)。

その帰りがけ、さとこがトイレに行ってる間の荷物持ちをしていると、小学校低学年くらいの子供が三人、目の前の自販機に集まって、何を飲むか相談しはじめた。

「なにのむ?」「どうしよう」「おかあさんが、ジュースはだめっていってた」

三人とも、まだ小銭投入口にぎりぎり手が届くくらいの背丈の小さい子たちだった。一番活発そうな男の子が最初に何を飲むか決めたみたいで、最上段のカルピスのボタンを狙って、バレーボールのアタックを決める時みたいなジャンプをした。男の子はカルピスのボタンにギリギリ届いているようにも見えたが、カルピスより先に、一つ下の段にあるブラックコーヒーのボタンを肘で押してしまっていた。「あれっ!へんなのかっちゃった」などと言っていたので、声をかけた。「そのコーヒーは僕が買いますよ。押したいボタンがどれか教えてくれたら押すから、言ってくださいね」おれの渾身のおじさんムーブだったのだが、「え?いや、おかねはいいです」と言われてしまった。

「でも、お母さんのお金でしょ?」「いや、これはぼくのおかねなんで」

結局男の子に論破(?)されて、おれはタダでブラックコーヒーをもらった。いや、おれブラックコーヒーは飲まないので…とも言いづらい雰囲気だったので、「ありがとう」と言って受け取ってしまった。それから三人分のボタンもちゃんと押してあげた。

「ありがとうございます。それもおなじカルピスですか?」

男の子が、さとこのリュックに入っていたカルピスのペットボトルを指さして聞いてきた。

「うん、これは、僕の友達ののんでるカルピスだよ」

男の子はたぶん、心の内側に一瞬視線を巡らせて、こういう返事をすることにした。

「僕たちも友達になりませんか?」

おれは(トモ…ダチ……?)と、山奥でひっそりくらすゴブリンのようにどぎまぎしてしまったが、それをなるべく隠しながら、

「そうだね、よろしくね」

と言って握りこぶしを軽く突き合わせてアイサツをしてみた。

出会った人にまっすぐ友達になろうと言えるのはとても素敵でかっこいい。おれもできればそういう事が出来るようになりたいな、と思った。そのあと、その子たちの(それか、そのうちの一人の?)お母さんを見かけたので、「かくかくしかじか……という事があって、コーヒーをもらってしまったのでお金を払いたいんですが……」と声をかけたのだが、「ボタン押してくれたんですよね?いいですいいです…笑」と言われてしまった。おれの手元にはすてきな子供の人と「友達になる」をした証拠品として、ブラックコーヒーのカンカンが残されたのだった。

新木場駅前のラーメン屋の入り口から、おじさんがぬっと顔を出して、「おーい!どこいくんだよ!」と外を歩いていた仲間(?)に声をかけた。仲間達は「いや…すいません!今日は!ありがとうございました!」と言って走って逃げて行った。なんだったんだろう?

・家に着いてから、さとこに「杉本さんと話してるとき、ゆうや鼻毛出てたよ」と言われた。

 

土曜日の朝、J dillaの「Donut」を聴きながらだらだら書いたメモ

J DillaDonutを聴く。さっきからなんとなく聴いているこれは一体なんなんだろう?とりあえず、起承転結みたいな作り方はされていない気がする。これは物語ではなく、おそらくシーンなんだろうと推測する。聴いていると、サンプル間のコール&レスポンスを見つける。何かの会話が発生しているものとして聴くことができる。ドラムの音が柔らかい。ぐりぐり押し込んでやろう、というテンションの作品ではないのだろう。よく分からないぶつ切りのものがひたすらに並んでいる、というような音が聞こえる。時々強弱が変わったりするけど、割とテクノ的というか、アンディーウォーホルの缶詰の絵みたいな、なんでそれを選んだのかよくわからんものがめちゃくちゃ複製されている、という印象がある。なんとかニュース!とかなんとかワックス!とか聞こえてくる。そもそも、英語をまったく理解していない人間がこれを聴いても仕方がないのかもしれない、と思い始める。何かの記事で、Jディラは歌詞が違う意味になるような音の切り方を意識的にやるような人だ、と読んだ。おれにとってはそれが英語であるとき、文学的側面は理解不能で、そのサウンドしか享受できない、というのが残念で仕方ない。とりあえず聴く。だんだんつかめそうな気がして来た、というところで次の曲になる。自分の寿命を感じながら制作していたのかと思うと合点のいく展開だけど、それは都合のいい解釈に過ぎない気がする。ここまで聴いて思ったのは、これはなんだかわからなくて、これはなんなんだ?という感想をなるべくメモしておこう、と思わされるところがある作品だということだ。これをクラシックだと言って褒めている人達は、昔でいうと発売当初にペットサウンズを絶賛したような人達なのかな?だとしたら、自分の感性は到底そこに追いついていないわけで、何かを刷新しなければいけないな、と思う。そもそも、ドビュッシーがすきです(しかもニワカ)みたいなだけの人間として、刷新もクソも無い気がしてきたので、それはもうあきらめることにする。いや、でもそれはドビュッシーに失礼な気がするのでがんばります。ヘッドホンで聴いているけど、これはヘッドホンで聴くべき音楽だな~これで聴いててよかった、という感じがする。音楽の中には、ヘッドホン(ヘッドフォン?なんでもいいから今からヘッドフォンて書くことにしよう)で聴くことを推奨されている気がしてならないものというのがあり、「Donut」もその一つに数えていいと思う。セクシーなお姉さんの声(としか言いようがない)が聞こえてきてビートが減速する謎演出。煽情的な訳では無くて、何か心地のいいものとしての表現な感じがする。次の曲は、そこを繰り返すんだ?と思う謎のループにその他の要素がコラージュされていく感じ。やはり訳も分からずに終わる。さっきから「分からない」しか書いてない気がするので、ここまで読む人がいたらごめんなさい、と思う(じゃあ公開するなという話ですが)。歌唱の終わらせ方みたいな部分を延々繰り返す曲を聴いた。次の曲はレイモンドスコットみたいなフューチャラマ的音源の引用から始まったが、あっという間にデトロイト的なものに浸食されてしまった。黒人という立場に居て、この引用されてる華々しい白人ポップスみたいなものはどう聞こえるんだろう、と思う。黒人といっても千差万別なのはそうだけど、なんとなく黒人という立場を踏まえたらおれが聴いているのとは違う聴こえ方をするんだろうなと思う。それを言ってしまえば、リスナーの置かれている立場によって音楽はどんなものとしても解釈されうるよな、と思う。京アニ放火犯の証言を思い出す。どんな作品をどんな奴がどう解釈するか、ということには、良くも悪くも無限の組み合わせがある。なんかリコーダーの音が聞こえる謎ループの曲。子供っぽい叫び声がずっとなっていた。小学校っぽいな、こうして書いてみると。これはたぶん小学校についての曲でした(たぶん違う)。次はストリングスが聴こえてきた。ストリングスはなぜこうも華美な印象をもつのだろう。醜悪なストリングス、というのは想像が難しい。いつかきったねぇストリングスの曲をおれがつくろう。ピッチが上げられたポップスのワンシーンが連続していく。ある程度聴いていて思ったんだけど、これはアルバム単位で聴かないといけないものなんだろうと感じる。これは長編小説なんだ、と思う。ぱっときいてよくわからん曲だな、となるものがひたすら並んでいる(おれにとっては…)。でもアルバムで聴いていると、全体の起伏みたいなものが見えてくる、いや、見えないけど、フラットだったシーツからじわじわ浮かび上がってくるみたいな感じがする。思えば、1曲目のタイトルがアウトロな時点で、これはアルバムとしてバッチリ構成を考えてますよ~っていうことは明示されていたんだな、と思う。あとはのんびり聴こうとおもうので、ここまで読んでくれた方が居た時のために、個人的に印象の似ているところがある音楽をふたつ書く。ひとつ、マイルスデイビスのビッチェズブリュー。なんかよくわからないものがうごめきつづけている、というところが近い(ジャズの感性が非常に鈍いリスナーによる意見です)。あと、finis africaeというバンド。このバンドはめちゃくちゃ謎のバンドで、洞窟でライブをしたり手製の楽器を使うらしい。よく知らない、全部間違ってたらごめん…でもおすすめです。その音楽に触れた時の異様な熱という点がこれも近い。なんかよく分からない熱にうなされたいような気分のときに、また「Donut」を聴きにこよう、と思う。というか、Donutを聴いていると、なんかよく分からない熱にうなされたいような気分になるんだな。とおもいました。終(そういえばヘッドフォンて書く機会なかったな……)

箱庭からクラブへ(自分で設けた境界についての雑文)

「今度飲みイベやるからおいでよ」

LINEで知り合いのダンサーの方から連絡が来たのが一か月前。"飲み"とも"イベ"とも縁の薄い私だが、僭越ながら妻と二人で足を運ぶことにした。会場に着いたのは0時。中に入ると、天井の左右に設置されたスピーカーからヒップホップが掛かっていた。キャップを被ったDJのお兄さんはガムを噛みながら卓を操作していた。

顔見知りの方達が何人か声をかけてくれる。人の名前を覚えられないことを申し訳なく思うが、来年にはまた忘れてしまっている気がしてつらい。かろうじて覚えている人には自分から挨拶をする。人に話しかけることは苦手でつらい。人の集まる場所でなにかポジションなり人間関係を確立するということから逃避し続けて生きて来た部分があるので、正直、どんな顔をしてそこに居ればいいか分からない。肝臓に似合わない酒を着せながら棒立ちで妻と話す。立っているだけなのに足をつる。

「どうしたの?」さっき挨拶したお兄さんが声をかけてくれる。

「立ってたら足つりました」

「踊ってる方が逆に良いかもね。俺は踊ってたらイボ痔が良くなったよ」

お兄さんが去っていく。

棒立ちで足をつるような奴がこの場に存在していていいのかと少し疑問に思ったが、私はヒップホップを聴くのもダンスを見るのも好きなので、後悔はしていなかった。(ただし主に90年代らへんのものが好きで、ブッダブランドとビートナッツとフリースタイル・フェローシップぐらいしか聴いてないけどそれらは愛している、という感じです。あと5lackも好きです)

 

更に夜が深まると、ダンスのショーケースが始まった。用意してきた1曲か2曲程度の音楽に合わせて、それぞれのグループが持ち寄ったダンスが披露された。間近でかっこいいダンスを観ることができて幸せだった。ダンスのスタイルの名前などを全然知らないので特にライブレポ的な文章は書けないのだが、ダンスをやってる人達はかっこいい音楽とか服をよく知っているように見えた。自分の知らないどこかには、カルチャーの泉とそこに生きるコミュニティが有るのだろうと思った。

何組かのショーケースが終わってしばらくすると、フリーセッションのような時間があった。音楽が掛かっている中で、なんとなく場の流れで指名された人が順々に踊っていく、という感じだった。ショーケースの為に用意されたダンスはもちろん素晴らしかったが、その場で即興的に形成される表現の面白さがあった。こんな面白いことを夜通しやっているのだからダンサーの方達の生きる世界というのはすごいなと思わずにはいられなかった。

……という感じで、完全に他人事な気持ちで突っ立って眺めていたのだが、ひととおり全員が踊り終わったっぽいな、というタイミングで、司会(イベントを主催している、LINEで誘ってくれた知り合いの方)が「ゆうや!!」と私の名前を呼んだ。同じ名前の人が居るんだなぁと思っていたのだが、司会は明らかにこちらを見ている、こちらを指さしてもいる。「こいつは普段はギタリストやってます」と紹介して頂いている。逃れようがなく、私は先ほどまでダンサーの皆様が踊っていた空間に駆り出されてしまった。そして「適当でいいから踊ってみなよ!楽しいよ!」というようなことを言われた。プロ含むダンサーの輪の中、温かい目で見守られながら、私は身動きがとれず拒絶することしかできなかった。ゲームならここでゲームオーバーだが、現実の出来事なので、死の救済というようなものもなく、うやむやにセッションタイムが終了した。そのあとで、司会を一区切りした主催の方から、

「ギター弾いてるんだから、ダンスもやった方がいいよ、長い付き合いなんだからもう出来るっしょ?」

と言われた。いやいや……と思わずにはいられなかった。私にとって踊るということは、好きな人にLINEを送るくらい恐ろしいことなのだが、呼吸するように踊り、そして愛を表現して生きて来た人達(多分)には理解して頂けそうにもなかった……。

ただ、そのような形で自分をその場の皆さんに紹介していただいたのだ、ということがよく分かるので、自分から場に入って良く、誰かとつながりにいく、というのが心底苦手な私にとっては、とてもありがたいことだった。

 

家に帰ってから思ったのは、「私という名前のついた箱庭の外に足を踏み出すことは難しい」ということだ。それは、仕切り板の中で育った犬が、大人になってその仕切りを跳び越えられるようになっても、決して跳ぼうとしない、という話に似ている。私はこういうものだ、という一つの箱庭のようなものがあると思う。そこには、「私なら言う言葉」や、「私ならこう考えるという価値観」「私にできること」などが収まっていて、私たちはいつも、その箱庭の中で暮らしている。そして、何か「できない」「知りたくない」「嫌い」など、「これは私ではない」という物事については、箱庭の外に置かれているのだと思う。今回「踊りなよ!」ということをいきなり言われてみて、私は、自分の箱庭の外に広がる世界の存在を強く感じた。そこはきっと面白い場所なのだと思うが、その場所に足を踏み入れることは難しい。そしてそれを難しくするのは、「私とはこういうものだ」という線引きでしかない。でしかない、というものなのだが、私は文字通りステップを踏むことが出来ずにその夜を過ごしてしまって、醜態をさらすことのできない自分を後から憎々しく思った。かといって、もう一回同じ機会があったらやはり拒絶してしまいそうな自分がいるのだが。

 

何か消しゴムみたいなものがあればいいのに、と思う。人によってはお酒とかがそういうものになるのだと思う。それを殊更に悪いことだとは考えていないけど、私には酒で自分を誤魔化す才能がないし、健康な落ち着いた状態で自分のボーダーを越えていける大人になれるなら、それが一番いいだろうと思う。しらふで使える消しゴムが欲しい、と思った。そのようなものが私の手元にあるとは言えないが、私なりに都度都度ラインを越えて生きていきたい。

 

ダンスは音楽のアルバムのようにパッケージされて見返すことの難しいものだと思う。今回私たちが足を運んだのはダンサーのイベントなので、客層も大半がダンサーあるいはDJなど、とにかく何かしらヒップホップとの深い関わりを持って居る方達ではないかという印象だったが、私のような門外漢でも存外感動できる(韻を踏んだ)素晴らしいものなので、みんなもダンスのイベントとかあったら行くと面白いし、その場で浮くとしても、それが観られるだけで良い体験になると思うよ!というのが私の伝えたいことなのだが、実際に足を運ぶ場合に一つだけ覚えていた方がいいのは、

ダンサーを覗く時、ダンサーもまたこちらを覗いているのだ

ということだ。

 

---

広告欄:

9/24に白いベランダのライブがあります。

詳細はHPに入ってちょっと下までいくとあるので、

興味のある方は「行くよ~」みたいな感じでTwitterなどで連絡ください。

(どなたでも是非あそびにきて頂けたらうれしいです。)

shiroiveranda.com

「どんぶり」の語源をググった

ネットで拾って来たどんぶりのフリー素材。うまそう

 

「どんぶり」って、なんで「どんぶり」って言うんだろう?

「ひのまる」だったら、「日の丸」ってわかるけど、

どんぶりは「丼ぶり」なのだろうか?そうだとして、「ぶり」ってなんだ?

と思って調べたら、「語源由来辞典」なるサイトがでてきた。

こういうの好きなんだよな~

gogen-yurai.jp

 

このページの「どんぶり」についての記載をすべて引用する。

丼の語源は、江戸時代、一杯盛り切りの飲食物を出す店を「慳貪屋(けんどんや)」と言い、そこで使う鉢が「慳貪振り鉢(けんどんぶりばち)」と呼ばれていた事から、それが略された「どんぶり鉢」といわれる。
慳貪とは「ケチで欲深い」という意味で、慳貪屋で出されるものは「慳貪めし」や「慳貪そば」と呼ばれ、それを運ぶものは「慳貪箱」といった。
八丈島の方言で「どんぶり鉢」を「けんどん」と言うのは、この名残と考えられている。
しかし、江戸時代、更紗(さらさ)や緞子(どんす)などで作った大きな袋も「どんぶり」呼ばれている。
そのことから、どんぶりは物を無造作に放り込むさまを表したもので、「どぶん」「どぼん」と同じ、物が水中に落ちる擬音語の「どんぶり」と関係するとも考えられる。

漢字の「丼(たん)」は「井(せい)」の本字で、字面から井戸の中に物を投げ込んだ音を表す字として用いられて、擬音語の「どんぶり」に当てられ、さらに「どんぶり鉢」を表すようになったものである。

ケンドン、というのがケチで欲深いって意味で、ケチで欲深いメシ(安くて多い的なニュアンスなのだろう)の店、みたいなのでつかってる鉢「けんどんぶりばち」の「けん」と「ばち」がどっか行って「どんぶり」だけ残った、みたいなことだと分かりました。

略語って頭からとりはじめることが多いから、「どんぶり」みたいなタイプの略語は珍しい感じがする。ポケモンのことを「ケトモン」と言ったりしないよね、というので、他に同じタイプの(端っこが切り落とされて出来てる形の)略語ってなんかないかな?って思って調べたら、とりあえず一つだけみつけたので発表してこのブログを終わります。

こちらです。

パンピー一般ピープル

ミチェラーダを飲み、フィリピンに帰るという選択肢を想像する

元同僚のフィリピン人J君と横浜で会ってきた。彼と一緒に働いたのはせいぜい数ヶ月くらいだったのだが、歳が近かったので当時仕事中によく話していて、なぜかLINEを交換したし、インスタグラムは彼に勧められて始めたものを今でも使っている。当時はたまに仕事終わりにメシに行ったりしていて、彼のパートナーとも会ったことがあった。それから5年くらいはお互いになんの連絡もとっていなかったのだが、今度そのパートナーと結婚式を挙げることになったそうで、その資金を日本の銀行で借りたいけど、日本語がわからんという内容の連絡がいきなり来たのがきっかけで、今回会うことになった。結婚資金の問題については結局借金をしないで解決できていたのだけど、せっかくなので会いたいなぁ、ということで、5年ぶりの会合になった。

横浜に着いたのは17時。横浜駅には最近(ここ1,2年くらい?)ショッピングモールが出来たらしく、駅から直結している入口で待ち合わせよう、という話になっていた。おれは方向音痴なので、駅を出てぐるぐるして、別の入り口からモール内に入り、店内の地図を見てようやくそこに着いた。J君は先に着いていた。5年ぶりくらいだし、以前より痩せていたけど、結構すぐに彼だと分かった。会ってすぐ笑顔で手を差し出してくれるので、そういえばフレンドリーな人だったと改めて思い出す。

もともとはタイ料理を食べよう、という話をしていたけど、やっぱりメキシコ料理をたべよう、ということになった。フィリピンの人達はおれの知ってる限りだと全員英語ができて、彼も例に漏れず、「Mexicanたべれますか?」という感じで「メキシカン」の部分は英語の発音だった。

入ったメキシコ料理店はなんというか少し所得の高い人がきそうな、お洒落な雰囲気の店だった。彼は着席した瞬間に飲物を注文した。人柄は穏やかだけど瞬発力がある。おれは店員さんにミチェラーダがあるか訊いた。あったので、それにした。家でさとこ(私のパートナー)とメキシコ料理の番組をみてて、そこでみた「ミチェラーダ」というビールカクテルがずっと気になっていたのだ。クラマト(貝の出汁とトマトのジュース)にビール、ライムとタバスコ、グラスの縁に唐辛子がくっついてる、みたいなカクテルで、気になりすぎて、飲んだこともないのに見様見真似で作ったりしていた。さとこと「本物はどんな味なんだろうね」と話しながら想像上のミチェラーダみたいなものをしょっちゅう飲んでいたので、ついに真相を確かめるときがきた、という感じだった。この日記の主題は特にないが、強いて言うなら『日本のメキシコ料理屋におけるミチェラーダはどんな味だったか』ということになる。


f:id:oishi_u:20230821024645j:image

 

手元にやって来たミチェラーダは、完成前の状態だった。グラスの底で希釈前のめんつゆみたいにクラマトが待機している。グラスの縁には唐辛子ではなく岩塩がまぶしてある(日本式なのか、メキシコでもそのパターンがあるのかは不明)。へりっちょにはライムが差してあって、内側には赤いマドラーが立て掛けてある。そのグラスと一緒に、メキシコのビールが運ばれてくる。お〜、本物の(?)ミチェラーダはこんな感じなのかと思って感慨深く眺めていると、「よく混ぜて下さい」といって店員さんが去っていく。早速ビールを注いでがちゃがちゃと混ぜてJ君と乾杯した。飲んでみると、おれが見様見真似で作ったものとくらべて、かなりしっかりとタバスコが入っていた。あと、グラスの縁に唐辛子、とかは家だとめんどくさいのでやっていなかったのだが、このミチェラーダのグラスにまとわりついてる岩塩のしょっぱさはウザいような気持ちいいような絶妙な存在で、「うま!しょっぱ!」みたいなことを思いながら飲む感じになる。本場の唐辛子まみれのグラスで飲むミチェラーダはきっと、「うま!辛!!」という感じなんだろうな、と思った。ひとくち飲む?とJ君に聞くと、「トマトが嫌いです」と言われた。ただしピザは好きとのこと。

彼はわりとメキシコ料理が好きみたいで、時折食べに来ているらしい。 おれは全然わからないので適当に料理を見繕ってもらって注文した。ナチョスとケサディーヤと、あとなんか角煮みたいなやつを食べた。むかし福生のタコス屋に行ったことがあって、そこがあんまり美味しくなかったから今日も期待してなかったんだけど、今日食ったやつは全部おいしかった。そしてミチェラーダが合う……さとこを置き去りにして、一足先に「メキシコ料理とミチェラーダ」という夢を叶えてしまった夜だった。

うまいめしを食いながら、どんな暮らしをしてたのかとか、おれの住んでる家の家賃がいくらだとか、まあ他愛もないような雑談をカタコトの英語とカタコトの日本語を飛ばし合いながらできる限り話してきた。この先も日本にいるの?ときいたら、あと何年かしたらフィリピンに帰るかも、と言っていた。「日本にいると、仕事ばっかりですね」と言っていた。朝四時に起きて造船所で働く、みたいなハードな日々を過ごしているらしかった(その部分は英語で言ってたので、あんまり分からなかった)。おれの覚えてるタガログ語は「アテ(おねえさん)」「クヤ(おにいさん)」「ポ(〜です」「マハルキタ(愛してる)」だけだ、と言うと、「よくおぼえてましたね!」と褒めてくれたあとで「メロンペラ」を教えてくれた。「メロンペラ」の意味は「金が無い」。J君、いまのおれにぴったりな言葉を教えてくれてありがとう……。

 

帰りがけ、「日本人の友達ゆうやさんだけです」と言われたのが印象に残った。こんなフレンドリーであたたかな人柄の若い兄ちゃんに、日本人の友人がおれしかいないなんてことあるのか…?と不思議に思ったのだ。

とは言え、フィリピン人の仲間はいてしょっちゅう飲み会をしてるらしいので孤独な日々、って訳ではないと思うのだが、この偏見コテコテの大日本帝国でマイノリティとして暮らすのはなんとなく骨が折れるんだろうな、と思った。

駐輪場に着いたJ君はパンクした電動自転車に空気を入れた。タイヤがどうしようもなくぶっ壊れてて、行き帰りに毎回空気を入れないと駄目らしい。また数ヶ月以内にでも会えたらいいね、と話して別れた。

おれは共感能力などがあまり高くないので、彼の言葉が本音か建前か区別がつかないが、また会えたらいいと思うし、タガログ語が話せるようになりたいとかフィリピンに行きたいと思いながら家に帰った。