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新木場いった、とかの日記

パートナーのさとこと二人で「キタカミフェス2023」というイベントを観に行く予定があった。それで早起きしたけど秒で二度寝してしまって、結局9時ごろに布団から出た。昨晩、ホームベーカリーに小麦粉や水をつっこんで、7時にパンが焼けるように予約していた。焼けてから2時間経ったせいなのか、ドライイーストが足りなかったのか、いつもより小ぶりなギュッとした仕上がりのパンをさとこが焼き皿から救出して、その他目玉焼きなども作ってくれた。さとこは以前から食べたがっていた「餡バターパン」をこしらえて朝から幸せそうにしていた。

図書館に返しに行く本があった。「なぜ皆が同じ間違いをおかすのか 「集団の思い込み」を打ち砕く技術」という本。下記、amazonから概要を引用。

・品不足と勘違いして買い占めに走り、本当に品不足を引き起こす。
・欠陥があるとの誤解により、移植用の腎臓の10%以上が廃棄される。
・周囲から期待されているという思い込みのため、自分の人生を犠牲にする。

ありもしないことを皆で信じる「集合的幻想」は、社会や組織、個人にいたるまで大きな弊害をもたらす。自身も「幻想」を体験した心理学者が、脳科学・心理学の知見と多くの事例をもとに、幻想にとらわれる過程、打破する方法を解説。ぶれない思考や正しい認識を身につけ、豊かな人生を送るための必読書!

本屋で見かけて面白そうだったから、図書館で借りていた。借りたはいいものの、読みたい本が多すぎて(それでいて読む力と時間が全然なくて)、返却期限を1日過ぎてしまった。次に予約してる人がいたから早く返しに行かなきゃ、という状況だった。結局冒頭しか読めていなくて、今度またちゃんと読みたいなと思っている。

冒頭に書いてあったのはこんな話。文章は引用ではなく、おれがうろ覚えで再構成した要約。細部が間違っている気がする。

1920年代、ニューヨークに小さな町があった。誰かが木の根に躓いたことまで世間話の話題に上るような、相互監視の行き届いた村社会だった。そこは敬虔なクリスチャン達が暮らしているような街で、キリスト教由来の禁忌として、例えば「絵札付きのトランプでブリッジをするのはあり得ない」という価値観が町全体での常識になっていた。ある心理学者が調査に訪れて町民の一人一人と交流してみると、

「絵札付きのトランプでブリッジ?駄目に決まってますね」

というような意見を述べた。ところが町民の7割ぐらいが、実際は絵札付きのトランプで普通に遊んでいた。心理学者が「本当はどう思っているんですか?」と改めて一人一人に尋ねると、こんな答えが返ってくる。

「私は正直どうでも良いと思いますが、みんなは駄目だと言うでしょうから」

どういう訳か、トランプくらい別に良いじゃんと思いつつそんな自分を少数派だと思っているので自分の意見を表明しない「サイレントマジョリティ」が沢山いるらしい、ということがそれで分かった。

どうしてそんなことになっているのか分かったのは、何年か後のことだった。ある日、その町に住んでいる、とある夫人が亡くなった。すると、町民たちがおおっぴらに絵札付きのトランプでブリッジを楽しむ姿があちこちで見られるようになってきた。心理学者は、これは一体どういう事なんだろう、と首を傾げたが、次のようなことが分かった。

亡くなった夫人は教会の先代の牧師の未亡人だったのだが、教会に莫大な寄付をしていて、「町で一番の権威(教会)に仕える牧師の給料を実質払ってる人」みたいな立ち位置のおばさんだった。このおばさん…名前を書いてあったけど忘れたのでボケナス夫人ということにするが、ボケナス夫人は町の集会などに顔を出しては「絵札付きのトランプでブリッジをするなんて絶対に許されないことです」などなど私的な意見を知った風な口で言いまくっており、町の人達は皆「ボケナス夫人が言っているなら、たぶん教会もそういう見解なんだろう」と思い込んでしまっていたのだという。

ところがこの夫人が亡くなると、牧師は「もういいだろ」と言って普通にトランプで遊び始めた。町民たちも、「なんだ、やっぱり別にこれくらいしてもよかったのかよ」ということになった。これが事の次第だった。

権威のありそうな声の大きい人が私見を垂れ流していると、それを無批判に常識として呑み込んでしまう人々が生ずる、というのがこの話の要点だろう。この本は恐らく、社会に害をなすような集団幻想に対して私たちはどう対処していくべきか、ということを考えるための本になっているものと思われる。今度ちゃんと読みたい。

図書館に行こうと思って自転車に鍵を差すと、タイヤがぷよぷよになっていることに気づいて、近所の自転車屋に空気入れを借りに行った。自転車屋に着くと空気入れの順番待ちの小さな列が出来ていて、自分もそこに並んだ。並んでぼーっとしていると、後輪の泥よけが曲がっていることに気づいた。曲がっているというか、ズレているというか。ネクタイが真ん中ではないところから垂れているような感じになっていたので、自転車屋のおじいさんに声をかけた。

「すみません、ここが曲がってしまったんですが、修理するといくら掛かりますか?今お金が無いので、見積もりだけお願いしたいんですが」

「あ~?いいよいいよ。お金はいいからちょっと待っててね」

おじいさんは無骨そうなひょろっとした背中を見せて、先客の自転車を修理しながら答えた。しばらくして、先客の自転車の修理が終わる。先客とおじいさんが話している。

「はい、これでもう絶対に取れないから」「ありがとうございます」「何年乗ってたの」「三年ぐらいかしらね、でも安物だから」「安物だと作りが甘いからね。ほら、ここ…メイドイン・チャイナって書いてあるでしょう」「ああ、そうねえ、それでかしら」「でももう大丈夫だから。4500円です」

うお、チャリの修理ってやっぱ高いんだな、と思いながらそれを眺めている。先客がやがて去っていって、おれの番になる。

「はい、お待たせ。ここに持ってきてね」「分かりました」

作業スペースに自分の自転車を持って行って、おじいさんに見てもらう。おじいさんは泥除けのワイヤーを固定するためのパーツを見て、「ここが壊れてるね」とドライバーでかちゃかちゃ外していく。

泥除けのワイヤー。これと泥除けを固定する金具のようなものが付いている。チャリ持ってる方は自分のチャリを見てみてください。

(パーツを替えてもらうのだとすると、結局最終的にお金を請求されるのではないか…)と不安になる。作業を見つめていると、野球帽をかぶった少年が自転車を手で引きながらやってくる。「あのー、パンクしちゃったから見てほしいんですけど」「ああ、いいよ。12時に取りに来てね、預かっておくから。お金は後でで良いよ」「分かりました」「12時ね、12時」「はい、分かりました」などと話している。(パンクでお金とるなら、おれもやっぱり請求されるのでは…)とさらに不安になるが、もう「やっぱりやめてください」とも言えない気がして黙って見守る。泥除けのワイヤーを固定するパーツが外れると、ネジ止めのための小さな穴が二つ残る。おじいさんが店の奥に消えて行く。代わりのパーツを持ってきてくれるんだ、と思って待っていたが、しばらくして戻ってくると、ネジ穴のあった場所にちゃちゃっとケーブルタイを通して、それでワイヤーと泥除けを固定してしまった。

 

ケーブルタイ(っていう名前のものらしいです。おれも今調べて初めて知りました。コード束ねたりするのに使う、プラスチックの穴あき紐みたいなやつ)

「よしっ」おじいさんは満足げに頷いた。おれは、(パーツ取られてケーブルタイにされた…)と思いつつ、まあ確かに泥除けは真っすぐ固定されていて申し分ない状態にもなったので、なるほど…と思った。

「終わったよ、ボク」

ボク…?(アラサー・男性)と思ったが、あ~、それでお金はいいよとか言ってくれたしこういう適当修理でもいいだろ(ガキンチョのチャリだし)みたいなことになったのか、と思って、アラサーなりの精いっぱいの若作りをきめこんで「ありがとうございましゅ」などと言って立ち去った。

既に3000文字書いたが、まだ朝起きて図書館に行こうというところで、全然状況が進んでいない。おれは冗長な文章を書く天才なんじゃないかという気がして来たのでペースを上げる。

・チャリの空気は入れた。

・本は返した。

・電車とか乗った。

・「キタカミフェス2023」は天気も場所も演奏も素晴らしかった。

ペースを上げたので、17時ごろ「キタカミフェス」が終わった、というところまで書けた。途中、「aqubi」というユニットで活動されているキタカミさんと杉本さんにもお会いできて、わ~…と思いながら遠目に見ていたら声をかけて下さったりとか、嬉しいこともあった。「キタカミフェス」はキタカミさんの知り合いの方達が中心に出演されているイベントだった。好天の新木場野外でジャズやポップスの素敵な演奏を聴くことが出来た。フードでカレーを売っていたりした(エスニックな感じの、おいしくて滋味深いカレーだった)。

その帰りがけ、さとこがトイレに行ってる間の荷物持ちをしていると、小学校低学年くらいの子供が三人、目の前の自販機に集まって、何を飲むか相談しはじめた。

「なにのむ?」「どうしよう」「おかあさんが、ジュースはだめっていってた」

三人とも、まだ小銭投入口にぎりぎり手が届くくらいの背丈の小さい子たちだった。一番活発そうな男の子が最初に何を飲むか決めたみたいで、最上段のカルピスのボタンを狙って、バレーボールのアタックを決める時みたいなジャンプをした。男の子はカルピスのボタンにギリギリ届いているようにも見えたが、カルピスより先に、一つ下の段にあるブラックコーヒーのボタンを肘で押してしまっていた。「あれっ!へんなのかっちゃった」などと言っていたので、声をかけた。「そのコーヒーは僕が買いますよ。押したいボタンがどれか教えてくれたら押すから、言ってくださいね」おれの渾身のおじさんムーブだったのだが、「え?いや、おかねはいいです」と言われてしまった。

「でも、お母さんのお金でしょ?」「いや、これはぼくのおかねなんで」

結局男の子に論破(?)されて、おれはタダでブラックコーヒーをもらった。いや、おれブラックコーヒーは飲まないので…とも言いづらい雰囲気だったので、「ありがとう」と言って受け取ってしまった。それから三人分のボタンもちゃんと押してあげた。

「ありがとうございます。それもおなじカルピスですか?」

男の子が、さとこのリュックに入っていたカルピスのペットボトルを指さして聞いてきた。

「うん、これは、僕の友達ののんでるカルピスだよ」

男の子はたぶん、心の内側に一瞬視線を巡らせて、こういう返事をすることにした。

「僕たちも友達になりませんか?」

おれは(トモ…ダチ……?)と、山奥でひっそりくらすゴブリンのようにどぎまぎしてしまったが、それをなるべく隠しながら、

「そうだね、よろしくね」

と言って握りこぶしを軽く突き合わせてアイサツをしてみた。

出会った人にまっすぐ友達になろうと言えるのはとても素敵でかっこいい。おれもできればそういう事が出来るようになりたいな、と思った。そのあと、その子たちの(それか、そのうちの一人の?)お母さんを見かけたので、「かくかくしかじか……という事があって、コーヒーをもらってしまったのでお金を払いたいんですが……」と声をかけたのだが、「ボタン押してくれたんですよね?いいですいいです…笑」と言われてしまった。おれの手元にはすてきな子供の人と「友達になる」をした証拠品として、ブラックコーヒーのカンカンが残されたのだった。

新木場駅前のラーメン屋の入り口から、おじさんがぬっと顔を出して、「おーい!どこいくんだよ!」と外を歩いていた仲間(?)に声をかけた。仲間達は「いや…すいません!今日は!ありがとうございました!」と言って走って逃げて行った。なんだったんだろう?

・家に着いてから、さとこに「杉本さんと話してるとき、ゆうや鼻毛出てたよ」と言われた。