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ぽめぽめ

 カシ太は仙人のアパートで紅茶を飲みながら誓いを立てた。仙人は何千年か生きていると言っていたが見た目はそこらに居る青年のようで、カシ太はまだ子供だった。仙人がカシ太に訊いた。
「本当にやりたい?」
「はい」
 意気込んだら声が少しかすれてしまったのが恥ずかしくて、カシ太は紅茶を啜った。ティーカップを持っていない方の手は、膝の上に置いたぽめぽめを抱いていた。ぽめぽめは、カシ太が名付けたぬいぐるみだ。
「君の一生がそれだけで終わってしまうかもしれないし、最後までうまく行かない可能性もあるんだけど」
「いいんです」

 

 

 カシ太が仙人と知り合ったのは、中学校から下校している時のことだった。カシ太は叔父夫婦の家に住んでいて、洗濯機を使っていいのは週に一度と決められていたから、学校ではよく「臭い」「ゴミ」と言われた。
「なんか臭くない?」
 悪童のグループはその日も威嚇的な笑みを浮かべながら近づいてきた。みんなカシ太に嫌がらせをするのに夢中な連中だった。カシ太は学校の悪童グループにぽめぽめを取り上げられてしまった。

「ぬいぐるみがかわいそうだろ、洗ってあげなきゃな!」

ぽめぽめは水たまりに放り込まれ、カシ太自身も暴力を振るわれた。その時、曲がり角から二十代くらいの青年が現れて、カシ太と悪童たちのいる道を歩いてきた。あのお兄さんは見て見ぬふりをして横切って行くだろう、とカシ太は思ったが、青年はシャツの袖から羽虫の群れを出して、悪童たちに襲いかからせた。羽虫の群れは黒い煙のように見えた。悪童たちは身体のあちこちを刺されながら逃げていった。
「大丈夫?」
「大丈夫です、全然大丈夫です」
「あれって君の?」
 青年は、水たまりにうつ伏したぽめぽめに気が付いていた。
「はい、ぽめぽめが……ぽめぽめって名前なんですけど、あいつらに取られて……」
 泥まじりの雨水でぐじゅぐじゅになっているぽめぽめを見て、カシ太は泣いてしまった。だから、あまりうまく説明できなかった。
「そっか。大丈夫、僕の部屋ですぐに洗うよ」
 その日はカシ太の衣服を洗っていい日ではなかった。洗濯機を使ったら、叔父に怒られる。カシ太は青年のアパートに行くことにした。
「ありがとうございます」

「僕のことは仙人って呼んでくれるかな?響きが好きなんだよね」

「分かりました、仙人さん」

「さんは付けないでいいよ」

 


 仙人はカシ太に自己紹介した。僕は近所のスーパーでレジ打ちをして暮らしているただの暇人です。
「でも、実はここ何千年か生きててね。学校でホモ・サピエンスって習ったかな?それより前に居た人達と遊んだこともあるよ。それでまあ、色々修行をしたから、さっきみたいに虫を出したり、暇つぶしみたいなことは出来るんだけど」
「全然すごいです」
「でも、『虫を出せます』で雇ってくれる人は居ないから。それに、レジ打ちって奥が深いんだよ」
「ピッてするだけじゃないんですか?」
「君もいつかやってみるといいよ」
「やってみます。……あの」カシ太は切り出し方が分からず、出し抜けに訊いた。
「あの。魔法が使えたら、ぬいぐるみと話すこともできますか?」
「『ぽめぽめ』と話したいの?」
「話したいです。僕の友達は、ぽめぽめだけだから」
「もう少し生きたら、もっと友達が出来ると思うけど」
「ぽめぽめと話せないなら、もともと今週中に死ぬつもりだったから、友達は出来ないです」
仙人はカシ太の目をじっと覗き込んで、少し考えてから返事をした。
「辛かったんだね。じゃあ、少し調べるから待っててくれるかな」
「全然大丈夫です」
「待たせてしまうから、先に紅茶を淹れようか」

 

 

 紅茶が冷めてしばらく経ってから、仙人が本棚のある部屋から戻ってきた。外はもう暗くなっていた。
「結論から言うと、ぬいぐるみに命を吹き込む秘術、君が言う魔法みたいなものだね。それはあったよ」
 だけどすぐに出来ることじゃない、と仙人はカシ太に説明した。その秘術を行うためには、ある修行が必要である。その修行はどうすると上手く行ったのか、または上手く行かなかったのかを判断する方法が何もないため、ある日成果が出るまでひたすら続けなければいけない。
「それって、何をすればいいんですか」
「教えてあげたいんだけどね。僕たちの世界には決まりごとが色々あってね。本当に覚悟のある人にしか教えられないし、教えたら秘術が成功するまで一生やらなきゃいけない。時間の無駄だって思ってからも、ずーっと。そうしないと、全身からウジ虫が湧いて死ぬ」
「良いです、ぽめぽめと話せるかもしれないなら、その為にずっと頑張ります」

「本当にやりたい?」
「はい」
「君の一生がそれだけで終わってしまうかもしれないし、最後までうまく行かない可能性もあるんだけど」
「いいんです」
「本当の本当に?」
「はい」
「……分かった。じゃあ、教えるよ。まず修行だけど、この街にある七つの公園に住んでいる野良猫たちが居るから、毎日必ずエサをあげに行って。雨の日も、台風でも、もしこの街を引っ越すなら、その後もずっとだよ」
「猫のごはんですか?」
「そう。次に命を吹き込む方法だけど。毎晩、寝る前にぽめぽめの名前を呼んで。うまく行ったら、次の日の朝から話せるから」
「え……それだけですか?」
「でも、毎日、ずっと、だよ。あと、一日でもサボったら、二度と出来なくなるらしいから気を付けてね」
「分かりました。ありがとうございます」「ぽめぽめが目覚めたら、また会おうね」
 カシ太は叔父の家の玄関の前に立っていた。午後九時を過ぎていて、叔父からはクラスの悪童たちがマシに思えるほど厳しい仕打ちを受けたが、カシ太はもう気にしなかった。
(僕は、ぽめぽめと話すために生きて行くんだ)
 強い思いがカシ太の心を支えた。

 


 修行はそれから六十年続いた。六十年後、カシ太はキャットフードをリュックに詰めて公園を訪れた。その背中はすっかり丸くなっていた。午後九時。レジ打ちの仕事から帰ると、ぼろぼろの自転車で七つの公園を回って猫にエサをやる。カシ太は六十年間毎日それを守り続けた。そしていつも最後に訪れるのがこの公園だった。背の高い街灯が、砂利の小さな広場を照らしている。カシ太は自転車を停めると、垣外の明かりから離れたところにある植え込みに向かって歩いていって、しゃがみ込むと暗がりに向かって声を掛けた。
「タマ、ペロ、ピータ、ぽよすけ、めがね、アカネ、ギュードン。ごはんだよ」
 カシ太は野良猫たちをあだ名で呼び集めてエサをやった。カシ太は身体を折り曲げて、苦しげな乾いた咳をした。
「ふう。僕はもうおじいちゃんになってしまったよ」カシ太は猫達に話しかけた。「夢だったのかなって今日も思うよ。仙人のアパートがあった場所、どうしても思い出せないし」
「なごなごなご」「アーアー」野良猫たちが返事をした。
「でも、君たちがご飯を食べてるのを見ると僕は幸せなんだ。また来るね」
「ナーオ」「なごなご」
「うんうん。また明日ねえ」
 カシ太は家に帰った。叔父たちとはずっと前に縁を切って、小さなアパートで独り暮らしをしていた。荷物を置くとシャワーを浴びて、簡単な夕食を済ませてからスーパーの制服を洗濯した。洗濯が済むと午後十一時半を過ぎていた。カシ太は布団に入って、隣に置いているぽめぽめに向かって話しかけた。
「おやすみ、ぽめぽめ」
 これといった兆候もないまま、カシ太は眠るように息を引き取った。

 

 

 翌朝、ぽめぽめが目を覚ました。ぽめぽめは長いあいだ自分の中に眠っていた魂をありありと感じ、その身体を布団の上でもぞもぞと動かすことまで出来た。
「カシ太!起きて!わたし、話せるようになったよ!わたし、歩けるようになった!」
ぽめぽめはその喜びをカシ太に伝えようと精一杯声を張り上げたが、カシ太は静かに目を瞑っていて、いくら声を掛けても動かない。その亡骸は布団の中で、仏像のように静かな表情を湛えていた。
「カシ太!一緒に遊ぼう!」
「おはよう、ぽめぽめ」――若い男の声がした。
 いつの間にか、仙人が布団の側に立っていた。昔のまま、二十代の青年の姿をしている。
「仙人!ひさしぶり、ねえ、カシ太が起きないの。仙人も手伝って!」
「カシ太は、もう起きないよ」
「なんで?いつもはこの時間に起きてるよ?」
「いや、これからはもう起きないんだ」
「やだ!わたし、カシ太と遊びたいってずっと思ってたよ。カシ太と遊ばせて」
「そうだよね」仙人がカシ太を見下ろす。「入れ違いになってしまうとは」
「カシ太はどうしたら起きるの?」
「そうだなあ、うん……ちょっと待ってね」
 仙人はカシ太に手をかざして、呪文を唱えた。すると、カシ太の口から湯気のような水色の光が出てきた。光は仙人に気づくと言った。
「あれ。仙人、お久しぶりです」
「おはよう、カシ太くん」
「僕もレジ打ちの仕事をしましたよ。なかなか奥が深いですね」
「分かってもらえてよかった」
「でも、どこのスーパーを探しても仙人は居ませんでしたが……」
「仙人の法律みたいなものが色々あってね。申し訳ないけど、隠れて遠くから見てたんだ」
「そうだったんだ」
「カシ太!」ぽめぽめが言った。
「ぽめぽめ!」カシ太はそれがぽめぽめの声だとすぐに分かった。「喋れるようになったの?」
「うん!話せるよ!カシ太と遊びたくて起こしてた!でも、カシ太は青いふわふわになっちゃったの?」
「ふわふわ?あれ、自分が寝てる…幽体離脱?これは、やっぱり夢なのかな」
「いや、夢じゃない。君は死んでしまったんだよ。ぽめぽめが目を覚ますのと入れ違いになって」
「そんな、ぽめぽめが起きてくれたのにですか?まさか、そんな……ぽめぽめ、ごめんよ」
「カシ太がもう起きないのはさびしい。でも、いまカシ太と話せてうれしいよ!」
「カシ太くんは、このままだと成仏しちゃうんだけど」仙人が言った。「いま、野良猫たちが大反対してて」
「そうでしたか。そういえば、僕が死んだら猫たちのご飯はどうなってしまうんだろう」
「それもあるし、それから、ぽめぽめが目を覚ましたことも、カシ太くんが亡くなったことも、猫たちはみんな気づいていて、『せっかくぽめぽめが話せるようになったのにひどい、仙人がカシ太に身体を譲ればいい』って言って来たんだ」
「猫たちは勝手なことを言うんですね」カシ太のほほ笑むような声が部屋に漂った。
「仙人のなかに、カシ太が入るの?」
「そう、僕が出て行って、カシ太くんが代わりに入る。お引っ越しだね」
「仙人はどうなるんですか?」「一度、空気とか水のようなものに戻るよ」
「それは仙人に悪いです」
「君はそう言うと思った。だから、ぽめぽめに訊きたいんだけど、いいかな?」
「いいよ!」
「僕とカシ太くん、どちらかしかここに居られないとしたら、どっちがいい?」
「カシ太!」ぽめぽめは即答した。
「仙人に悪いよ」カシ太がぽめぽめを諫めた。「ぽめぽめと遊べないのはすごく寂しいけど、僕の命は終わったんだ」
「でも、仙人のなかに入ったらいいって今言ってたよ!」
「カシ太くん、そういう訳だから。この身体を君に譲るよ。猫たちもケチケチするなと言ってる」
「悪いですよ」
「大丈夫。仙人って案外沢山いるから。僕はもう何千年も生きたから、そろそろ情報をリセットする必要があるし。それより、よく頑張ったね」
 仙人はカシ太の亡骸の隣に身を横たえると、亡骸の頭をそっと撫でた。ぽめぽめも、「わたしもいつも見てた!」と張り合った。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、ぽめぽめのために生きることが出来ました」
「じゃあ、僕は出るから。この身体は使う人が居ないとすぐに崩れてしまうから、急いで入るんだよ」
 仙人はそう言うと、息を深く吸い込み、ゆっくり吐き出した。仙人の口から、淡い虹色の光の玉のようなものがふっと出てきた。
「またどこかで」
「ありがとうございました」
光の玉はプリズムのようにカラフルな光を部屋に反射させながら、窓に差す朝陽へ泳ぎ出すと、霞のように消えてしまった。
「カシ太!早く!」「うん、いま入るよ」
カシ太は急いで仙人の使っていた身体の中に入った。そして目を開いた。

 


「カシ太!」「ぽめぽめ……」「動けるの?」「うん、大丈夫。動けるよ」
「よかった!じゃあ、早く遊びにいこう!」「うん、そうだね。どこに行こうかな」
 水曜日の朝、レジ打ちのバイトは休みだった。麗らかな陽射しの中、カシ太はぽめぽめを自転車のカゴに乗せて、その日一件目の公園に行った。
「ポンキチ、すし、オムちゃん、タンポポ、がんも、ひよこ、おいで」
 カシ太はその公園の猫たちを呼んで、エサを撒いた。猫たちは集まってくると、エサには目もくれず色々なことを言った。
「マオー」「あうなうな」「ンミ、ナア」
「ああ、そうだった……みんな、気にかけてくれてどうもありがとう」
「カシ太がくれるご飯はおいしいから、仙人よりカシ太の方が良いって」ぽめぽめが言った。
「ぽめぽめは、猫たちの言いたいことが分かるんだね」
「マンナン」がんもが言った。
「今朝、新しい仙人が生まれたんだって!」
 がんもは一度茂みの奥に引っ込むと、子猫を一匹くわえて連れてきた。
「ミイ、ミイ」
その目の奥を覗くと、淡い虹色に光って見えた。
「この子が仙人?」カシ太ががんもに尋ねた。「ナンマンナム」
「あたらしい仙人を育ててあげることにしたんだって!」
「そうかあ。ありがとう。よろしくね」
「ナムナム」がんもが言った。