物事は真似から入った方がいい、オレンジレンジは偉い
興味があること、やりたいことは、真似から入った方がいいんだ、と思うふたつのことがありました。*1
1. ChatGPTは文法を理解している訳では無いという話
ChatGPTは流暢に言葉を操って文章を書きあげるが、文章の意味を理解しているわけではないらしい。どういうことかというと、いろんな文章をひたすら暗記させまくって、
<「むかしむかし」と書かれたら次は「あるところに」が多い>
という、統計的なというか、何か経験則のようなものをもって反応するようになっているらしい。
つまり、めちゃくちゃ暗記をする→なんか分かってる感じになるという順序で文章生成の能力を獲得しているということだ。
2. ルービックキューブを買って遊んで思ったこと
最近、ルービックキューブを買った。正確には「ルービックキューブみたいなやつ」で、パステルカラーでかわいいし、真ん中に謎の中国語が書いてあるし、中国は卓球とルービックキューブの国なんだと思うとなんだか楽しい。
で、ルービックキューブ(みたいなやつ)には説明書がついていて、それを読みながら決まった手順で動かしていると、絶対に6面の色を揃えられるようになっている。例えば「他の部分の色を変えずに、ある2か所の色だけを並び替える」みたいなセオリーが色々とあって、それを何種類か覚えておけば、全部の面の色を揃えられるのだ。
これも、意味が分からんけど暗記する→なんかできるという順序でパズルが完成することだ。
3.そして、オレンジレンジは偉い
それで思い出すことがある。おれが小学生くらいのとき、オレンジレンジが人気だったのだが、その頃、ネット上ではこういう言説が猛威を振るっていた。
「オレンジレンジの○○って曲は、有名な洋楽の××って曲の真似をして作ってる」
「真似だからパクリで、パクリだから悪で、オレンジレンジは最低なバンドだ」
今なら、迷わずこう言える。「ブルースマンは全員有名なブルースのコード進行をパクってるけど、ブルースマンはかっこいいし、パクリは文化だ」と。
しかし小学生の頃のおれは、そんなこと知らなかったので、「そうか、パクリはダサくて、真似をするのはひどいんだ」と思ってしまった。
で、もしかしたら現代に生きる小学生も、あるいはどこかで偉ぶる大人も、「パクり=悪」という思想に染まって生きている可能性があるな?と思って、この記事を書きはじめたのだが、結論として言いたいのは、興味があること、やりたいことは、真似から入った方がいいということだ。
それが出来るようになるために、それを理解する必要はないのだ。なぜなら、
・理解する→覚えられる
・理解する→出来るようになる
という順序は能力の獲得の実態からずれているからだ。(と思いました)
実際には、目の前にあるお手本をめちゃくちゃ真似したり、パクりまくったりしたほうが絶対にいい。
そして、長く険しいコピーの道を歩むことが出来た人間だけが、
・めちゃくちゃ暗記をする→なんか分かってる感じになる
・意味が分からんけど暗記する→なんかできる
という体験をすることになるのである。
だから、洋楽とかを適当にパクりながら音楽を楽しんでいたオレンジレンジは偉い。
これは皮肉じゃなく、オレンジレンジは物事のあるべき順序を守っていただけなのだ。
というようなことを思ったんだけど、耳コピとかするのがどうも苦手だ。
腰が重いというか、何かをすぐに始められる人になりたいなぁと思うことが最近多い。
やる気のあるみんなは、好きな人やものの真似をいっぱいすると、きっと何かいいことがあると思うので、是非やってみてください。
*1:校長先生の話みたいな書き出しで気に入っている
AIと戯れる:Stable Diffusion(お絵かきAI的なやつ)の最新版をGoogle Colabで動かして、Google ドライブに「時刻+連番」のファイル名で複数の画像を出力する方法
世の中には頭がいい上に知っていることを周りに共有してくれる神のような人がいるので、そういう人が書いたものを探すと、暇な人はAIで遊んで幸せになることができます。
Google Colab で SDXL 1.0を試す|npaka
おれは↑この記事を読んで、最近の画像生成AIで遊べるようになったので、暇な友達向けにシェアします。
---
それから他にもいくつかググって得た情報をもとに、自分が遊びやすいように少しだけ改良、というか、他の記事で得た情報などを合体させて、Google Colabのノートブックをつくって、それで遊んでる。気持ち悪い画像が沢山つくれて、バケモノ工場で働いてるみたいな気持ちが味わえるのでたのしいです。なので、PCが要るけど、暇で試したい方向けに、おれの出来る範囲で手順を書いてみます。
5分くらいあれば画像生成まで行けると思うので暇で興味がある友達がいたらがんばって!!!
あと、おれはプログラミングの知識が皆無なので、
ここ直したほうがいいよとか分かる人がいたら記事のコメントで教えてくれたらうれしいです。
---あそびかた---
1. Google Colabで新しいノートブックを作る
Google Colabとは、Googleのアカウントがあれば無料で使える、
なんかスーパーコンピューターみたいなやつです。
2. ノートブックを編集する画面の上部のメニューから、
「ランタイム」>「ランタイムのタイプを変更」を押して、
「ハードウェア アクセラレータ 」を「GPU」ってやつに変えて設定保存する
3. ノートブックの画面左上に「+ コード」って書いてあるところがあるので、
何回か押してコードの入力欄が3個ある状態にする
4. それぞれのコードに下記の内容をコピペする
・1個目のコード
・2個目のコード
・3個目のコード
5. [Ctrl]+[F9]で待ってると多分うごく。
6. お絵かきAIの準備とかGoogle ドライブに接続とかは最初だけやればいいので、
以降は上記「3個目のコード」の左にある再生ボタンみたいなやつを押せばOK
ボタンを押す前に、プロンプトの英文を好きなものに書き換えたり、
画像の画面比率を好きなように変えたり、枚数を増やしたりする
---あそびかた・終---
以上です。Google Colabを開いてコピペするだけなので、興味があったらためしてみてね!いっぱい遊ぶと、街中の景色がAI生成のニセモノの風景みたいに見えて心の調子が怪しくなったりします。
思い出せた記事が、最初に引用したひとつだけだったんだけど、いろいろ調べて読んだおかけで遊べてる感じです。Stable Diffusionの使い方について記事を書いてくださった方達、このブログを読むことは無いと思いますが、どうもありがとうございます。
冗長桃太郎
第一部
《胎動》
昔々、今よりも幾らか前のある期間、それは一週間や数十年前ではなく、恐らく百年か二百年か、或いはそれよりもさらに旧い時代を指していると考えられる。しかしそれが石器時代よりは幾分先のことであるというのもまた明白である。なぜそのように言い切れるのだろう?と読者は疑問に思うに相違ない。それは、この後に続く物語の中に登場する事物が、石器時代よりは高度な文明を前提としなければ存在し得ないものである為だ。つまり、この物語が背景とする時代の中には、野山に転がる石を適当な形に叩き割る以外の様々な芸当を為しうる人々が存在していた、と考えることが出来るのである。
そのような時代の、あるところにおける物語が、これから始まろうとしている。あるところ、と言われたときに私達が想像する場所には大抵、山河の清浄な空気が漂っているものであるが、今回もまたその例にもれず、そこは恐らく川沿いの山村である。そこは断じて平地ではない。なぜならば、山が無ければこの物語を語ることは不可能となる為である。しかし、山はこの物語の中で最も不要なものの一つに数えられることも確かである。山はこの物語において起こる主要な出来事のいずれにも必要とされないものであるし、一度しか言及されないものであり、いかなる伏線ともならず、我々がしばしば金曜日のテレビで観ている映画番組でこの物語が上映される場合には迷いなくカットされるであろうシーンの中で、ただぽつねんと山が映されているものである。恐らく、あるところというのは旧い時代の中に数多ある山村の一つのことです、と説明する為だけに、この物語は山について言及する場面を持つ。私は、「昔々、ある山村で」と言えばそれ以上山についての描写は不要であると確信するものである。
あるところには、おじいさんとおばあさんが住んでいた。おじいさんペンギンとおばあさんペンギンではない。それは人間のおじいさんとおばあさんである。人間の定義は実に様々である。恐らく哲学者の中には、人間と同等の知性を持ち、感情に相当するとのを持つのであれば、それが一種の機械仕掛けであったとしてもそれを「人間」と呼ぶべきである、等と述べる者もあろうと考えられる。確かに、それもまた人間と呼びうるものであるのかも知れない。生身の人間の頭脳をそっくりそのまま機械によって再現し、デバイスの中に意識をインストールすることが出来るとしたら、それは人間と呼べるのだろうか?それを人間と呼べるとして、機械から発生した意識と、機械にインストールされた意識にはどれほどの差があると言うのだろうか?そのようなことを、日の出から日の入りまで考え続ける者も恐らく居るのではないかと思う。しかしこの物語における人間のおじいさんとおばあさん、というのは、ただ霊長類の一種としての人間を指すものであり、いわゆる人の姿をしてさえ居ればよいのである。
おじいさんとおばあさんは、とある山村で生活している。野菜を育て、木の実を採取し、木の枝と麻糸と芋虫などを用いて魚を釣り、生活を細々と繋いでいる。旧い時代のことであるから、毎日十分に腹を満たして生活していた可能性は低いと思われる。この物語が背景としているのは、ほとんどの子供が五歳にもならず怪我や病で命を落としていた時代である。おじいさんとおばあさんは、必死の思いで我が身を生活に繋ぎ止め、ようやく口に糊していた筈である。
その生活の一部としておじいさんとおばあさんは火を用いており、風呂を沸かしたり囲炉裏に火を起こす為に、焚き木を集める必要があった。おじいさんは最早老いさらばえてしまい、十分な体力が備わっていないので、斧などを用いて木を切り倒すようなことは極力避けている。しかし焚き木は必要なので、その代わりにそこらの山へと足を運び、雑木の細い枝を手で折っては、背に負った竹の編みかごの中へと放って集めていた。この細い枝のことを柴と呼び、それを集めることを柴刈りと言う。通例、この物語の中で柴刈りについて説明されることはまず無い。その為、幼時にこの物語を聞き知る我々は、ただ漠然と芝生を鎌で刈っている老爺を想像することがやっとである。しかし、苦しい生活を強いられているであろうおじいさんとおばあさんが、芝生を玩ぶことなどにその寸暇を割く道理は一切無いのである。果たして、その日もおじいさんは山へ柴刈りへ出掛けていた。悠長な老後など存在しない時代であった。
おばあさんはその頃川にいた。水遊びをしていたのではない。おばあさんは据えた臭いを放つ粗末な衣服の数着ずつを、やはり竹の籠に入れて川まで運んで来たところだった。「はあ、よっこいしょ」とおばあさんは言った。そうして実に難儀そうに籠を背から降ろすと、中に入っていた衣服を河原にぶち撒けた。衣服はみな煤けていて、生活から生ずる様々の臭いを辺りに漂わせてた。おばあさんは忌々しげに顔をしかめると、そこから一着を手に取り、川面にばしゃりと浸した。泥や汗などの汚れは薄茶色の濁りとして染み出し、濁りは流れに運ばれていった。おばあさんは川の中で衣服を揉み、擦り合わせながら洗っていた。揉んでも擦っても水が濁らないようになると川から引き揚げて、力を込めて絞っていく。水気を切った衣服は竹籠の中に放り込まれ、次の一着、また一着と順々に洗っていくのである。おばあさんは川の水の冷たさに指を痛めて、時折溜息をついた。おばあさんは洗濯を憎んでいた。しかし饐えた臭いの衣服を家中に転がしておくことはそれ以上の苦痛であった。それは、どちらの苦痛を採るか、という話であった。
最後の一着を洗い終えたおばあさんは、力尽きたように立ち尽くしていた。この川はどこから来てどこへ行くのか?おばあさんはじっと上流を見詰め、そんなことを考えるともなく考えていたのである。十分か、三十分か――――昔々の人々が六十進数で時を刻んでいたとは考えにくいので、おばあさんの感覚で言うならば「一本の薪が燃え始め、やがて炭となるくらいの」時間をおばあさんは過ごしたと言えるだろう。そしておばあさんは思っていた。そろそろ帰らなければ、おじいさんがうるさいだろう、と。しかし、いざ帰ろう、という段になって、おばあさんはあるものを見付けることとなった。それは全く持って予想だにしないものであった。おばあさんは川の上流を見やって、目を瞠っていた。上流からは、何か得も言われぬ音が聞こえてくるようであった。おばあさんの耳にそれは「どんぶらこ、どんぶらこ」と聞こえた。遠くから流れてくるそれは始め、何か巨大な桃色の塊に見えた。近づいてくるにつれて、おばあさんはそれが本当に巨大な桃であるということを認めざるを得なかった。口に糊するのがやっとの苦しい生活の中で、ついに気が触れてしまって、幻を見ているのではないか?おばあさんはそう思いもしたが、それが幻であると言い切るには余りに芳しい甘い香りが漂って来るため、おばあさんはやがて我を忘れて川に飛び込んだ。川の深さはおばあさんの腰の上ほどまであり、流れも決して緩やかではなかったが、おばあさんは一心に流れてくる桃を見詰め、鴨のように足で水を搔いて流れに逆らい続けた。そうしている内におばあさんの元へ流れてきた桃は、おばあさんが背負ってきた竹の籠より一回りも二回りも大きかった。おばあさんは必死に桃にしがみついた。両手の爪が桃に食い込むと、薄い皮の破れ目からは果汁が滴り、その香りにおばあさんは歓喜を覚えながら、桃をビート板のようにして岸へと泳いでいった。これほどに大きい桃であるから、外側が少々傷つこうが構ってはいられなかったのである。やがて、列車で死闘を繰り広げた荒くれたちが線路の外へ転げ落ちるようにして、おばあさんと桃は河原に上がった。おばあさんの頬にはいつの間にか擦り傷ができていた。どのようにして出来た傷なのか、興奮状態にあったおばあさんには見当がつかなかった。おばあさんは桃を抱え上げると、洗濯物を入れた竹籠の上に、けん玉のようにしてそれを載せた。竹籠を背負う足は寒さと疲労に震えたが、おばあさんはそれでも大いに満足していた。おばあさんが家に向かって歩いていると、桃は時々、おばあさんの歩みとはどこか違うリズムでぐらぐらと揺れているように感じた。おばあさんはそれをただ疲労のせいだろうと考え、歩みを緩めることはしなかった。この思わぬ収穫を、一刻も早くおじいさんと分かち合いたかったのである。
おじいさんはとうに柴刈りから帰って来ていた。家の戸をくぐったおばあさんを一瞥して、「今日は遅かったな」とおじいさんは言った。「どこで道草を食ってたんだ?」別に、怒っている訳ではなかった。この地域に暮らす男たちは、だいたい皆このような語り方しか知らなかったのである。おばあさんは「草どころじゃないのよ」と言った。「ほら見て」おばあさんは背から籠をおろして、おじいさんの前にどんと置いた。籠の上には巨大な桃が鎮座している。「おお」とおじいさんは言った。「どうしたんだ、誰かに貰ったのか」「いいえ、自分で拾ったの。なんせ、こんなに大きいのが川から流れてきたんだから。私、川の中に入って行って、それはもう頑張ったのよ」おばあさんは誇らしげにしていた。「そんな危ないことを」とおじいさんは少し顔をしかめたが、目の前に巨大な桃があるという喜びに抗うことは出来なかった。「しかし……不思議なものだな」おじいさんは感心して言った。「きっと、私達が一生懸命に暮らしていたから、仏様が下さったに違いないわ」おばあさんが言うと、おじいさんは「はああ」とため息のような声を出しながら暫し両手を合わせた。
28歳のフリーターとして生きる感想
社員登用を目標に働いて一年半が経過したバイト先にて、別部署の方から助言を頂いた。
「社員になりたいって言ってるだけじゃ意味ないよ。何かアピールできる特別な能力がない限りうちで社員になるのは難しいと思うよ」
それは至極正しい意見だとおもった。そして、自分には特別なスキルなど何もない。今のバイト先で頑張っていればそのうち何とかなるだろう、と考えてしまっていたけど、いまいち甘かったみたいだ。
次の仕事を探そうという気持ちが日毎に増していく。自分にとってそれは、学歴を書いた履歴書を一瞥した採用担当から門前払いを食らう日々を過ごそう、と言っているのに等しい。そのくらいでへこたれていては話にならないが、それなりにつらいことだ。では大卒ならいいのかと思って放送大学について調べてみると、放送大学卒業が就職において一般的な大卒の扱いを受けることは稀であるようだ。肩書き重視の世の中に少しうんざりしてしまう。もっとも、能力がより重視される世の中であれば自分はもう野垂れ死んでいる可能性もある。だから、本当なら文句の言える立場ではないだろう。
ふと思う。高卒無資格というのは、スロットを回せなかったパチンコ玉のようなものだ、と。このまま自分はどんな穴に落ちていくんだろう…と案じながら呆けているばかりでは、妻の生活を支えることも出来なくなってしまう。
困ったものだ。
もう少しましな穴に落ちるよう、それなりに頑張ろうとは思う。いじけても仕方のないことばかりで嫌になる。いじけた回数×2億円もらえるバイトとかないのか?あったら教えてください。
2023/08/14追記:このバイトやめて転職したらめちゃくちゃ楽でお金もちゃんともらえる仕事でした。転職は最高
避妊具の年齢確認で思ったこと
コンドームを買うとき、店員さんがなんとも気まずそうに、
「すみませんが、学生さんじゃないですよね?」
と訊いてきた。おれが自分は成人していると告げ、何か身分証を出しますか?と言うと、
「いや…ちょっと上の者に訊いてくるので待ってて下さい」
と言ってどこかに行ってしまった。待つことニ分。
(『成人してなさそうな人がコンドームを買いに来たんですが…身分証を見せてもらった方がいいですか?』)
とか話したのだろう、店員さんは戻ってきて、
「身分証は大丈夫です」
ということになった。店員さんは何か奇妙なものを見るような目でおれの顔を覗いていた(気がした)。
おれは別にかわいらしい顔立ちをしている訳ではないのだがひたすら背が低いので、それが如実に反映されたような体験をすると、改めてすこし傷つく。
実際に十代の学生がコンドームを買いに来た場合に、断ってしまったらどうなるか?たぶん学生はコンドームを使わない避妊法を考えてセックスをする事になる。そうすると性病のリスクや妊娠のリスクが出てきてしまう。それなら、こんな若い子が…というのは保留してひとまずコンドームを売ってしまった方がいいよね、という事になる。たぶんコンドームを売る機会のある人たちはみんな、大体こういうことを考えるんだろう、と思った。
性病や望まない妊娠を減らすには、子供にコンドームを売ったほうがいい。不潔な注射針で感染症に罹る薬物中毒者を減らすには、国が清潔な注射針を配ったほうが良い(実際にそうしている国もある)。それは妥当だけど、受け入れたくない人もいるだろうな、と言うことな気がする。そういう人たちが柔軟になればなるだけ、世の中は良い方向に動きやすくなるのかな、と思う。逆に、無思考の正解を求める人たちが増えたら、ナチスやオウム真理教のようなものが力を持ちやすくなってしまうのではないかと思う。
すれ違う人に会釈をすると何が起こるか
禁煙に失敗してから半年くらい経っただろうか。コンビニの店先にある灰皿で一服しているとおれの前をすれ違うお兄さんが居たので、邪魔になったかなと思って軽く会釈をした。
「良いんですよ!頭なんか下げなくってさ」お兄さんが言った。
「あ…はい」と返事を返す。
「そういうのは大事な時にとっとかなくちゃ。やたらめったら頭を下げなくたって良いんだよ」
「お邪魔だったかなと思って」
「良いの良いの!」
「いや〜、クセでして」
「まあ、おれもすいませんが口癖なんだけどね〜」
気さくで明るい人だなと思った。お兄さんはおれの傍らに座って煙草に火を付けた。
見ず知らずの人から不意に言われたことに妙に説得されるときがあるものだな、とおれは思った。
それから煙草が灰になるまでの間、お兄さんは通りがかる人々に向かって「なんだよ〜いい大人がジロジロ見てくるんじゃないよ、恥ずかしいと思わないのかなあ、恥じらいがないなら日本人じゃないですよ!」などと悪態を吐いていた。
「ここまで生き延びた自分を褒めてあげたいですよ、一度やってみたらいいよ、何日持つやら」
誰にともなく、お兄さんはデカい声で独り言ちた。
おれもこのお兄さんは誰かに称賛されるべきだと思った。でも関わったら嫌な目にあいそうなので何も言わなかった。
自由、それは松屋
おれは時々、働きに出かけた日などに、松屋の牛めしをお持ち帰りで購入して路上で食べる。味噌汁がつかないのは心惜しいが、店内で食う方がコロナの感染リスクも高そうなので、やむを得ずというところがある。でも、もともとそういう食い方が好きなのだ。
八王子駅周辺、ごちゃついて煤けた空気の中、表通りから一本外れた路地に立ち、行き交う車通りを眺めながら牛めしを取り出す。フタを開けて、空いた片手でどうにか取り出した七味の小袋を噛み千切って開封し、肉の上にかける。その七味は風に飛ばされて、結局三割くらいしかかからなかったりする。七味+三割=7+3=10なので、おれは実質十割の七味をかけることに成功してると言える。
断言してみよう。スーパーおしゃれなフレンチを夜景の中で嗜むより、道端で牛めしを食う方が楽しいしうまいし安いし早くて超強(ちょうつよ)なのだ、と。
飲食バイトの経験から言ってこぼしまくったり残しまくったりするのはどうかと思うけど、行儀のいい食事をしなきゃいけない、というのも違うと思う。自由に、雑に飯を食うというのは心のコリをほぐすには結構いいのではないかと思うし、道端で牛めしを食ってるやつが無数に存在している方が、落ち目のアジアの小国、というムードが漂い、この国をおれの好きな感じの日本に近づけることができる。
だから、これを読むあなたがピカピカの家で優雅に暮らすハイカラなお兄さん・お姉さんであったとしても、ぜひ道端で牛めしを食べてほしい。吉野家でもすき家でも、なんでもいいのである。よろしくお願いします。